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はじめての三次勉強会レジメ_20231029





太っ腹


絵姿で、時々「太っ腹になれ」と仰せになる。なぜなのか?

を考えてみる。


1.どうして、太っ腹が必要なのか?

自分で、案外自分の姿、与える影響は分からないもので、なぜ神佛がそのようなことを指示されるのか?

自分のやり方、考え方、物の言い方が善でない。(身、口、意)

善でない、悪、欠点、欠陥、弊害、邪魔、役に立たないから。

その性格、性質が相手や周囲(夫婦、家族、職場)の弊害となっている。

相手や社会のためにならない、障りとなっている。問題解決の邪魔になっている。

ひいては、その悪い影響が自分に返って来るから、それが分からないから。


2.「太っ腹」とは、どういう状況なのか?

辞書によると、

「太い」:大胆でものに動じない、落ち着きがあって安定している、

逆に横着である、図々しいなど。

(反対)細い、狭い、動じる、不安定、繊細、神経質など。

「腹」:心、考え、感情、気持ち、心底、本心、胆力、度量など。


性質

性質と心が小さくない、惜しみなく与えて、共有することを望んでいる。

鷹揚(ようよう:悠然、ゆったり)、でかい、 おっきい、大雑把、溶々たる惜しみ無い大らかラフである、大まか寛い大様(おおよう)、広量、だいたい、寛大等。


気持ちの面

気が大きい、気が置けない、磊落(らいらく:気が大きく朗らかで小事にこだわらないさま)、酒落(物事にこだわらず、さっぱりとした)など。


太っ腹の反対

すぐ気にする、心が小さい、せこせこする、いらいらする、カリカリ、いつまでも、自分の考えや価値観、やり方を植え付ける。

神経質である、細かい、繊細で落ち込む、けち、気になる、反応が早い、文句が多い、口うるさい、すぐ反対するなど。


3.どのようにすれば太っ腹なのか?

性格、性質を変えることはできない。自分の姿や考え方、行動、発言を改めるしか方法はない。


相手(状況、問題)のことを、知る、考えてみる。「相手の靴を履く」(諺)。

相手(状況)を認める(何らかの考えや、事情、タイミングがあるのだろう)、相手に同調、同意する。


相手に合わせる(自分にはわからないこともあるという考え)、持ち上げる、喜ばす。

相手の出方を待つ、相手に任せる、相手を許す、相手を信頼する、相手に頼る、

相手のことを気にしない、(無視する:意識するから)など。


自分が引く、一歩下がる、黙る、放置する、

自分が損をする、傷つく、怪我をする。

相手や状況、何かのために心を決める、覚悟する。

問題や状況を自分が引き受ける、任せてもらう。


4.どうしたらなれるのか?

「させられている」世の中は、神佛の意図ですべて動かされていることを認識する。

「知らせ」の意味を知らないから、神佛にはいろいろな手順、方策があるから、「お任せ」する。


自分で気づいていない欠点がある、それを自分で知り、認識、意識する。

自分を知る、問題を分析(解く:絵姿)する。謙虚、謙遜、目をつむる、口をふさぐ、

「させておられる」のが分からない。

いつのまにか「させられている」から「させられないよう」に、知らせを掛けていただく。


欠点、煩悩であるから、善を行い取っていただく、(人の嫌うことをしろ、汚いこと、物の処理を進んで行う)

自分のその欠点を善用する、工夫する、他の面で善業累積する。


絶対の守護


一般に「絶対守られる」「絶対助けていただける」「絶対によくなる」「考えていた以上のことが起こる」…と考える。

病気が良くなる幸せ、お金が入る幸せ、他人と比較してぜいたくな暮らしができる、地位が高い、有名である、…など。

それが本当に良いことなのか?物質的なことばかりに傾いてはいないか?

実は、人間が考える「絶対の守護」と、神佛の言われる絶対の守護とは少し(大変な)違いがあるようだ。


「絶対」と「守護」


まず絶対であるが、「絶対」に対して「相対」という言葉がある。

「相対」とは、向かい合う、相対する、他がある、という意味。

つまり比較するものがある、他人と比較して、以前と比較してなどという意味になる。

「絶対」とは、他に並ぶものがない、それだけ独自で比較、対立、対象がない、必ず、断じて、という意味がある。

他にないということは、他人との比較ではなく、自分でしかなく、自分の中で、自分だけで必ずという意味になる。


次に「守護」であるが、「守る」と「護る」の合字。

守は、家の中で身を小さくしている状態。つまり法の下で、はみ出さないようにして、守られる状態。

護は、小鳥が木の上で、上からは草に隠れてい身を守っている状態だが、言は外から警告されるという状態の守られる。

つまり法則に守られ、他人から神佛から言わされて守られるということ。


われわれの考えでは、肉体が幸せになる、身体が楽になると、それが善いようになる、何が起こっても、肉体が死ぬことからは、守られる。

それが「守護される」と考える。


体験を通じていえることは、この学び、大自然の法則は、自分と神の関係を構築して、「神のお考え」という価値観で判断するのだ。

もっと言うなら、他とは違うのは自分で、自己自身、永遠の自分とは「魂」ということになる。(霊魂不滅)

「魂が守られる」のが、「絶対の守護」ということも考えられる。



「魂が、どうあるか?」「魂がどうなっているのか?」「魂が磨かれてきたのか?」ということは、その人の物質的な、他人の比較、現世の価値観の問題ではない。

命の長さ、他人が見た生き様の良し、悪しでもない。内面の「魂磨き」である。


「魂とは」

「魂魄(こんぱく)」ともいう。

生きているときが「魂」(魂霊)で、死んでからが「魄」(魄霊)。

人間の「魂」は、「心」と「意」(霊観応:意通力)である。

魂は、人間や生物の根源をなす、心を支配する、電流みたいなもの。

電球と電流があるが、どちらが光るのか?

電流が流れ、そして電球が光る。

電流が「魂」で電球が「心」。

心、意(意通力)、感情、思い、考えなど一切の根源が魂。

魂はどこにあるか?身体にあるようでないのが霊魂。


*課題:魂が善くなった、魂が守られるというのはどのように判断するか?


どのようになったら善くなったと言えるのか?

それは、「心と意、感情、思い、考え」が法則に適い、現在、未来にわたって、社会公共に役に立つことができるようになった時ではないか?

他人のために生きているか?役に立っているか?




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