伝え方に付いて_滋賀勉強会にて
- HarmonyProject
- 2024年7月14日
- 読了時間: 5分
更新日:2024年7月15日

2024.7.6の滋賀勉強会のお題は「正しい生き方」
滋賀の勉強会のレジメは、「正しい生き方」でした。初めに出た質問も「邪命と正命」だったりと、神が働く勉強会となりました。
ただ、レジメの内容に関しては、先生からのお話を伺う時間が無く、レジメを自宅へ持ち帰っての勉強となりました。
今更となりましたが、本日、やっとそのレジメを熟読して、まとめることが出来る時間に恵まれました。
レジメの骨子を要約すると、
①【正しい生き方】とは
②【正しさの基準】とは
③【正しい学び方・伝え方】とは
この三点につきます。
【正しい生き方】とは
「正しい=四適に適うこと」というお話から始まりました。
正しいかどうかの判断は、行動した結果で判断するとのことです。なぜなら、正しくないことをした結果は、必ず歪となって現れるからと書かれております。
そこで、私はふとした疑問が湧いてきました。
【方便】と言われるものが現れるとき、【ご神示=四適に適う】という理解では、納得が行かない場合がある、と。
今まで私は、【ご神示=四適に適う】と教えて頂いたにも関わらず、 【方便】があるからとか、【間違ったご神示】とか、【未熟なご神示】とか、【学びが浅いから当てにならないご神示】とか、【そんなご神示もある】と考え、ご神示にすべてをゆだねることを躊躇していました。
しかし、ことわざに、【雨降って、地固まる】というものがあるように、目的を達成するためには、一時雨を降らせることも必要な場合もある、ということに気が付きました。
【目先の正しさ】や【目先の結果】だけでなく、
その先を見通した【未来を見通した結果を考えた正しさ】=【四適に適う】=【ご神示】
と考えると、全てのつじつまが合ってくることに気が付きました。
そういえば、学び始めたころは、上手く行っていないように思えたことも、振り返れば、あれで良かったと思えることが沢山ありました。
だから、それを【方便】と言うならば、 【方便】があるからとか、【間違ったご神示】とか、【未熟なご神示】とか、【学びが浅いから当てにならないご神示】とか、そんなことに振り回されることなく、どんなときも自分のご神示を信じてやっていくことで、必ずや長い目で見た時に、この道で良かったと言える日がきっと来ると、信じれるかどうかにかかっている、と気付かされました。
だから、正しい生き方は、善へ向かうためには最低限必要で、私たちはまず正しさお理解することが大事なんだと理解しました。
【正しさの基準】とは
【正しい】=【四適に適う】=【ご神示】ではなく、
【未来を見通した結果を考えた正しさ】=【四適に適う】=【ご神示】が正しいということは、前章で書きました。
だから、目先の結果としては、【思うように行かなくても】、それでも、【自分のご神示】を信じて行く、【ご神示を頂く】姿勢をやめない、【ご神示を疑わない】姿勢が大事だと思いました。
【正しい学び方・伝え方】とは
このレジメで勉強になったことは、
【この学びで正しさが求められるのは、聞・信・践である。】という一文です。
逆に、それ以外は、正しさは求められていないのか?と、ふと考えました。
確かに、「善」というレベルでは考えていましたが、「正しさ」ということに関しては、幅が狭いというお話から、自分勝手に自分の中では、【正しさ=正しくない】というイメージが出来上がり、【正しさ】ということに関して、あまり追求してきませんでした。
しかし、【善】を語る前に、【正しい生き方】あってこそ、なのだと気付きました。
【正しく伝わるか、否か】は伝える側の問題、と、このレジメでは言い切っております。
自分の勉強不足を棚にあげてみたり、自分の努力不足を、結果に付いては神がすることだからと言い訳したり、なぐさめたり、と、私たちは都合よく考えてしまいます。
しかしやっぱり、伝わらないのは、自分に何かが足りないからです。
レジメでは、道理や常識と照らして明らかに間違っている場合や自分に他の目的がある場合など、と書かれています。
私も、【伝える】ということに関わり始めて、伝えることの難しさを痛感しています。
しかし、この【伝える】ということを通してしか学べない、生みの苦しみのような気付きもある、と最近では思います。
これは、私の場合ですが、私は数年前にこの勉強に出会いました。
当時は、大うつ病が主病で、双極性障害、統合失調症、乖離障害、不安神経症、発達障害
適合障害など、様々な精神疾患で悩まされ、更に重症筋無力症という難病の症状にも苦しみ、難病認定の検査も行っている状況でした。
それから数年後には、普通に働いて、普通に家内との結婚生活が出来ている、ということが、本当は、普通ではないことを忘れていました。
先生には、「何を悟ってそうなったんだ?」とよく尋ねられますが、
自分では、何か悟ってこうなったとか、そんな高尚な出来事は一切なかった記憶があります。ただ、訳もわからず絵姿を頂き、ああだこうだと言われることに右往左往しながらも、先生にも導かれ、ここまで来た、というのが正直なところです。
ということは、「私が何かしたから善くなったわけではない!」ということです。
では、依然と何か違ったことをしたか?と言えば、この教えに出会い、勉強した、
ということです。
これはそのまま、「この教えが正しかった!」という証明以外の何物でもない!と、今更ながら気づかされました。
だから、今はこうして、ホームページやブログで、伝えるお役目も頂けているのだ、と。
そして、このレジメの最後は、伝え方の今後の在り方について書いてありました。
「今後は、神(当来佛)が説かれたからではなく、各自が学び、体験し、その体験で、法理や教えの正しさを証明していってほしい」と。
この言葉が特に、私は心に残りました。
【伝え方の一例】として
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